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広島ラーメン
昭和20年(1945)8月6日、広島は原爆投下で焼け野原となりました。その廃墟の中で、広島市民は復興に向けて頑張りました。
終戦後、中国大陸に渡っていた沖稔さんは、中国人の板前を伴って帰ってきます。広島駅前には屋台が立ち並んでいましたが、そこに屋台「上海」を構えます。広島市内に屋台出店の規制が敷かれ「上海」も屋台をたたみます。
そこで、「上海」も店を構えることになりますが、その時、沖さんの義理娘ヒデ子さんと、ヒデ子さんのお姉さんがそれぞれ2軒の店で切り盛りすることになります。姉妹で持った2軒の店は「しまい」という名で始まります。これが広島のラーメン1号店だといわれています。
「しまい」の沖さんと親戚関係にあたる関上さんも進められてラーメン屋台「寿々女(すずめ)」を始めます。そして、昭和38年ラーメン店「すずめ」を構えます。
そしてもうひとつ、やはり「しまい」と親戚関係にあった津瑠田さんは屋台「陽気」を始めます。しかし、津瑠田さんは屋台を閉めることになり、お客だった原宏之さんに「陽気」を譲り渡すこととなりました。始めは素人だった原さんも努力の甲斐あって繁盛していきます。
場所の移転などはありましたが現在も「しまい」「すずめ」「陽気は」広島ラーメンの御三家として語られ、現在も続いています。
広島ラーメンの特徴は、東京と九州の中間に位置する為、醤油味スープと白濁豚骨スープがせめぎ合っており、現在は、やや白濁豚骨スープよりかもしれません。よく新商品のテスト販売地に選ばれる程、食文化センスは高く、スープはラーメン文化の良いとこ取りをした「豚骨醤油味」で、麺は中細ストレート。トッピングは、もやし、青ネギ、チャーシューが主流になっています。
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